問題は権威への頼り方

日本社会がこれまで「誰が言ったか」ばかりを取りざたしてきたことへのアンチテーゼとして、「何を言ったか」というテーゼを今後は展開していくべきだと考えている。(毎日新聞連載「ネット君臨」で考える取材の可視化問題)
という章句を見つけた。ネットの匿名性についての論考で、↑自体には同意だけれども、ネットによる批判での情報の非対称性に対する認識が欠けているように見える。
ネットにおける有名無名の非対称性 on 佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン


 佐々木さんの「アンチテーゼ」は、言うはご立派ですが、所詮は幻想に過ぎないのではないかと思いますね。

 権威主義を完全に拒否する立場では、万人が全ての事象に対して自ら検証しなければならくなり非現実的ですし、権威主義に疑念を持つ立場だとしても、簡単な問題ならともかく、難しい問題を検証するには第2・第3の権威に意見を請い、妥当そうな回答を検討するしかないでしょう。医療におけるセカンド・オピニオンもそのパターン。

 結局は、普通に社会生活を送るには権威に頼らざるを得ないわけで、問題は権威に対する頼り方なのかなぁと思いますね。


 有名人実名/匿名の非対称性の件は全く同意します。また、さらに無名人実名/匿名や匿名/匿名でも実は非対称性を抱えているような気もしますね。

 匿名言論は認識できない人物の言論ですが、匿名言論の主体にとっては、自分の言論のみが認識できる人物言論となります。「森」も匿名ですが、佐藤さんにとっては他の匿名の人と区別できないでしょうけど、私にとっては「森」は私自身でしか有り得ません。そんな状況では、自分が持っている「私の言論はコレとコレで、その他は匿名である」という情報と、別の人が持っている「私の言論はアレとアレで、その他は匿名である」という情報との間に、非対称性が生まれます。ここに自分と他者とのギャップが生まれてしまうわけで。


 んー、でも、有名人/無名人とか無名人同士でも結局同じような気もしないでもないですね。また、佐々木テーゼの件は「アンチ権威主義」は後付けの理由で、実は匿名言論は権威主義に対して無意味ではないのか(「誰が何を言ったか」の両方が重要なのでは?)とも思えてきました。

 今日はこの辺りで…。